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2011年8月6日土曜日

広島、ロンドン。

【今日の一言】
おじいちゃんとロバートのことを思い出すと、なぜだか夏の空の香りがする。


9月になると「4月になれば彼女は」というサイモンとガーファンクルの歌を思い出す。
その歌詞の中に、「9月になると思い出す」、といった部分があって、英語だから正確には、内容を理解していないんだけど、きっと、センチメンタルな内容なんだろうな、とは思う。

なぜ今、「4月になれば彼女は」の話をしたかというと、僕のおじいちゃんのことを思い出したから。
僕もいい歳なので、おじいちゃんではなく、祖父と書くべきなんだろうけど、何歳になっても僕にとってはおじいちゃんなので、そう書かせてもらう。

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僕は9月生まれだが、おじいしゃんも9月生まれだった。
おじいちゃん⇒9月生まれ⇒「4月になれば彼女は」という曲の歌詞に「9月になると思い出す」という歌詞があったな
という順番。

まあいいや、そんなことは。
今日は、不思議で、大好きだったおじいちゃんの話だ。

さっきも書いたけど、僕は9月に生まれた。おじいちゃんも9月生まれ。孫が同じ誕生月に産まれた、ということで、おじいちゃんはたいそう喜んでくれたそうだ。

僕のおじいちゃんは、特務機関員、つまり、諜報部員=スパイだった。
もちろんその事実は、あくまでも「なんとなくスパイっぽいぞ」という雰囲気が、おじいちゃんが死んでから家族の間で流れていただけで、おじいちゃんから、「わしはスパイじゃ」と告白された家族がいるわけではない。でも僕は間違いなく、おじいちゃんはスパイだったと思う。
第2次世界大戦の前後、スパイだったら、それが人にバレるということは、命を失うことにつながってしまう。そんなこと、どんなに親しい人にも漏らすはずがない。

いったいどこの国に属したスパイだったんだろう。日本か中国か連合国側か。おじいちゃんは、僕が中学に上がるころ、死んでしまったから、もはや誰にもわからない。藪の中だ。
しかし、おじいちゃんがスパイだったことを確実に裏付ける事実があった。


1945年8月6日の数日前の話だ。もちろん僕は生まれていない(僕は終戦の14年後にこの世に生を受けることになる)から、この話は母や関係者から聞いた話をもとにしている。

おじいちゃんや、おばあちゃん、うちの父母は、広島市の西の郊外に住んでいた。(今でも母はその家の近くに住んでいる)
「もう、日本は負けるで。特に広島は大変なことになる」
おじいちゃんは家族に伝えた。「とにかく広島から逃げるんじゃ」「これまでとは比べ物にならんほどの爆弾が、広島に落ちるんじゃ」とおじいちゃんは訴えた。。

しかし、他の家族は、日本が負けるなんて1%も思っていなかった。(すごい洗脳だよね)
だから、そんな大変な爆弾が落ちるなんて、誰も信じない。
「おじいちゃん、そんな変なこと言うのはやめんさい」と、むしろたしなめるのに必死だった。

それでもおじいちゃんは、家族に説得を試みた。必死に試みた。「とにかく逃げにゃあいけん。広島は危険じゃ」

しかし説得虚しく、結局誰も言うことを聞かなかった。
おじいちゃんは、一人で山陰方面に疎開した。
(これは家族を捨てたということではなかったと思う。仕事もあっただろうし、何とか自分だけも安全を確保し、8月6日以降、広島に舞い戻り家族を助けようと思っていたはずだ。
事実、おじいちゃんは、8月6日以降、すぐ広島に舞い戻り、家族と再会している。被曝に細心の注意を払って)

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8月6日に何があったかは、皆さんご存知のとおりだ。
世界ではじめて、核爆弾が広島に投下された。その惨状は筆舌に尽くせない。



幸いなことに、僕の家族は、ある程度爆心地から離れていたので事なきを得た。
家族の中では母が一番爆心地から近いところにいた。国鉄の横川駅で被爆している。ピカッと激しい閃光を感じてから、数分後、おびただしい景色を目の当たりにすることになるが、母や僕にとっては幸いなことに、その後もずっと健康で過ごしている。

第二次世界大戦や原爆投下のことについては、またいずれ書こうと思います。今日はおじいちゃんのことがテーマなので。


さて、おじいちゃんは、どうして原爆が落ちることを予測できたのか。

確かに、当時、広島への原爆投下を知ることができた人はいたらしい。海軍の通信兵は知っていたらしいし、当然軍部の幹部も政府の上層部も知っていただろう。
あれだけの惨劇が起こることが分かっていて、広島の人たちを避難させず、殺してしまったのだから、ひどいものだ。

おじいちゃんは、通信兵でなければ、軍の幹部でもない。では、どうして原爆投下を事前に知ることができたのか。それはスパイだったからだと思う。


僕が小学生の頃まで、おじいちゃんの知り合いだということで、イギリス人の青年が僕の家によく遊びに来ていた。25歳くらいの金髪で精悍な顔つきをした紳士だった。
彼はロバートと名乗っていた。まるで映画俳優のような、今で言えばイケメンだった。
イギリスに住んでいるが、仕事の関係で、日本によく来るということだった。

ロバートとおじいちゃんは、ビールを飲みながら、冗談を言い合っていたかと思うと、ヒソヒソ声で秘密の会話めいたことをすることもあった。

きっと、おじいちゃんの仕事と関係あったのだろう。二人は黒い金属の固まりをよく、僕の小さな家の縁側の上に拡げていた。
彼はそれを隠す様子も無く「無線機だよ」と流暢な日本語で僕に説明してくれた。そして僕とよく遊んでくれた。
僕は彼が大好きだった。無線機のこともいろいろ教えてくれた。「ほら、こうすると、イギリスの人とお話できるんだよ」

ロバートと、うちの地元の祭でけっこう全国的に有名な管絃祭に一緒に行ったときは、子供時代のとても楽しかった思い出だ。
竹西 寛子



今思えば、ロバートもどこかのスパイだったのだろう。当時、そんなことは想像もつかなかったけど。

気がつくと、いつの間にかロバートはうちに来ることはなくなっていた。仕事の関係で、もう日本に来る必要はなくなって、ロンドンに帰ったらしい。

僕が小学生だったということは、戦争が終わって既に20年は経過している。それを考えると、おじいちゃんは連合国側は中国側のスパイだったのかもしれないが、それは想像の域をでない。もしかしたらどこかの国に属するといった単純なスパイではなく、もっと複雑な関係の元に働いていたのかもしれない。


ある夏の終わりの頃。じいちゃんが、「イギリスへ行ってくる」と言って出ていった。それは自転車で海岸まで散歩してくる(その時の我が家から、海岸まで、歩いてでも2、3分だった)といった感じだった。
ロバートの結婚式に招待されたらしい。仕事を通じてなのか、それともそれぞれ人間としてだろうか、いずれにしても親子以上の年齢の差があった二人の間には、かたい友情が流れていたと思う。




おじいちゃんは、それから3ヶ月くらいしてから帰ってきた。
結婚式の様子やロンドンの風景などの写真を見せてくれた。
写真で見るロンドンの風景は、僕も思いっきり興奮させてくれたし、そんなところにひょいひょいっと出かけて帰ってくるおじいちゃんを、かっこいいなと思った。
家族全員に紅茶のお土産、父には高級なスコッチ、母と姉には素敵な洋服がお土産だった。僕には、顕微鏡を買ってきてくれた。今でも自慢の顕微鏡だ。


ロバートは、家に来ることはなくなったけれど、毎年、夏には暑中見舞いのようなカードを、冬にはクリスマスカードを、必ずロンドンから届けてくれた。
イギリスの素敵なおもちゃなども一緒に送られてきた。

我が家に電話が引かれたのは、僕が小学校2年の時だったと記憶する。カラーテレビを買った年に電話もついたように覚えている。

それからは、年に数回、ロバートからおじいちゃんに国際電話がかかってきた。

電話がかかってくると必ず僕と話したい、とロバートが言ってくれて、いろいろお互い近況報告をした。それはずっとずっと続いた。
僕はおじいちゃんが大好きだったように、ロバートのこともずっと好きだった。


時は流れて。

7年前のことだ。あれも夏の終わりだったと思う。ある化粧品会社のシャンプーのテレビCMの撮影で、ロンドンへ行った。
霧の街、ロンドン。しかし、天は見方してくれた。快晴が数日続き、美しい映像を撮影することが出来た。ロケの3日目、最後の撮影が終わり、15時くらいにホテルに戻ると、伝言があった。広島の母からだ。

ロバートが危篤だという。

具合がよくないロバートが、僕とどうしても話しがしたい、ということで、奥さんに頼んで広島の実家に国際電話をかけてきたそうだ。
残念ながら、僕は広島には不在。
しかし偶然か、必然か、僕はロンドンにいる。
母は慌てて、よくわからない国際電話で、僕が宿泊するロンドンのホテルに伝言を残したのだ。

僕は、一瞬のうちに35年の時間を逆さまにたどった。広島の我が家の縁側で、黒い通信機を出していろいろ教えてくれたロバートの姿が蘇った。

入院先は、ロンドンの郊外。近くはないが、遠くもない。ロンドンの夏の日は長い。21時くらいまで明るいから、何とかお見舞いが出来るはずだ。

撮影打ち上げのパーティー出席をキャンセルし、その病院までどう行けばいいのか、これから行って面会できるのかを確認し、列車とタクシーを乗り継いで、それでも18時前に病院に着いた。

「ロバート……」僕は声にならなかった。
ロバートが危篤である、という状況より、35年ぶりの再会を果たしたことの方が、僕を感傷的にさせた。

そりゃロバートにも、僕にも、同じように時は流れた。でも、二人共、すぐあの頃のような気持ちになった。
ロバートはまだ、意識はしっかりしていた。筆談が中心だったけど、少し会話をすることも出来た。彼が書く文字は、漢字を交えたきれいな文字の日本語だった。

彼は、僕を、あの頃と同じ目で見つめて、嬉しそうに、やさしく微笑んでくれた。僕も、気づいたら微笑んでいた。
それからのことは、よく憶えていない。でも、僕とロバートの間には、おじいちゃんを間において、間違いなく親友としての絆があった。僕は、おじいちゃんと一緒で、ロバートが大好きだ。


日本帰って、撮影したコマーシャルフィルムの初号試写を行った夜、ロバートが死んだというEメールが、彼の奥さんから届いた。
彼に最後に会えたのは、奇跡としか言い様が無い。

病院のホテルで、彼がほほ笑みながら、僕のために書いてくれた文章は、僕の大切なものをしまう引き出しの中に、しまってある。
どんなことが書いてあるかを、少しだけ紹介しよう。

「関五郎(おじいちゃんの名前)と、一郎(僕の名前)と、広島のことは、天国に行っても忘れない」と、まず書いてある。そして……

「きみのおじいちゃんは、結婚式に出席してくれた。君は、まあ、僕の葬式に出席してくれたようなもんだ。ありがとう。
結婚式と葬式か。
最後に、君に結婚式とお葬式に関わるアイルランドの諺を教えてやろう。『ガミガミ言われたいなら、結婚するべきだ。誉められたかったら、死ねばいい』 もうそろそろ、さよならだ」

今でも、このノートを見ると、涙が溢れてくる。

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