お買い物は楽天で

ページ

ラベル ショートストーリー の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ショートストーリー の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2013年2月15日金曜日

高校時代 (イントロ的なもの)


【再会】

中央線の上り電車は、大きく右に曲がりながら新宿駅に入ろうとしていた。
西荻窪に仕事があってその帰り。14時を周る頃。席は空いていたが、進行方向に向かって右側に立っていた。
僕が乗っていた中央線の快速のすぐ側を、登りの各駅停車が並行して走っていた。
何気なく、その各駅停車を見ていたら、その電車のドアの内側から、こちらに視線を送ってくる人物がいる。
僕はその女性をよく知っていた。

Sだった。
彼女とは高校の同級生。黒い髪と、すこし大きな瞳。美少女とまではいかないが、清楚で静かなイメージで、結構男子から人気があった。ただし、陸上部に所属していていて、放課後はトラックを走っていたので色は黒かったが。

僕は、各駅停車に乗っているSに、手を振った。僕も気づいているよ、というサイン。彼女も僕に手を振り返してくれた。
新宿で降りよう、すこし話でもしないか、と身振り手振りで彼女に伝える。彼女もオッケイのサインを送ってくる。
突然の再会。こういうこともあるんだな、と少し胸がときめいた。

高校の頃、僕は彼女と付き合っていたわけではない。彼女は陸上部でハードルを跳んでいたし、僕はサッカー部でグランドを駆けずり回っていた。
ただ、帰りの電車がよく一緒になった。市内にある高校だったけど、僕と彼女は郊外から通っていた。電車が乗換駅まで一緒で、1周間に2,3回は還りの電車が一緒になった。
クラブ活動が終わって数十分すると、空腹に耐えられなくなるのは男子だけじゃなく女子も同じらしい。乗換駅にある立ち食いのうどん屋で1周間に1度くらいのペースで、二人してうどんを食べた。ただし、彼女の場合、うどん1杯を一人で食べると、家での夕食に支障をきたすので、二人で1杯頼んで、それを7対3から6対4くらいに分けて食べた。
僕たちは、そういう意味では仲が良かったが、付き合っていた、というわけでは決して無かったんだ。話を交わすのは、乗換駅までの帰りの電車と立ち食いのうどん屋の中くらい。どんなことを話したかなんて、もう、すっかり忘れている。

Sは、電車を降りたホームで待っていてくれた。先程は気づかなかったが、ベージュのスーツを見事に着こなしている。攻撃的でもないし、コンサバティブ過ぎもしない。スカートはひざ上。僕と同級生だから50歳を少し超えているのに、その丈がよく似合った・

「久しぶりだね」
と声をかけると、
「ホントに……」
と、あの頃の笑顔で答えてきた。

もう、あの頃のように色は黒くない。もちろん数十年の時の経過を経ているのだから、高校生の彼女がそこにいるわけではないが、気持ちは高校生の頃に戻っていた。

「あまり時間がないの」
と、すこし困ったような表情。
「じゃあ、あそこに行きますか」
と僕は、駅ナカの立ち食いそばやを指さす。

彼女の困った顔が一気に笑顔に変わった。
「お腹は空いてたんだ」

二人で1杯のうどんを頼む。小分けする器をもらい、彼女に分ける。大人になって、しかも空腹な彼女が、結局80%くらい食べた。大人になるとはこういうことか。
うどんを食べている時間は、10分もなかっただろう。でも、僕たちは間違いなく高校生の頃に戻っていた。

「じゃあまたね。私は地下鉄に乗り換えなの」
「ああ、気をつけて」
「また会おう」と付け加えようとしたけど、やめた。
携帯の番号も交換せず、
地下鉄方面に小走りで走っていく彼女を見送りながら、二度と会うことはないだろうな、と思った。








2011年9月17日土曜日

僕だけ提出した宿題

【今日の一言】
宿題に出た読書感想文はラフカディオ・ハーンの「耳なし芳一」でした。



あれは、小学校5年のことでした。だからもう数十年前の話ですが。

夏休みがあけて、9月1日。

新学期の初日に登校するときの気持ちは、微妙ですよね。夏休みが終わってしまった、という寂しさと、友だちや先生に会えるうれしさと。
それから夏休みの終わりの何日かで仕上げたたくさんの宿題を提出して、ほっとする感じ、あの開放感。
意識はしていませんでしたか、夏から秋へ、あの一日で子どもの頭の中では切り替わるのですね。

で、僕が小学校5年生の時の、2学期の初日のことです。

教室は賑やかです。友だちとの久しぶりの教室での再開のうれしさ、40日間離れていた教室の香り、若い美しいH先生の笑顔……。

一段落ついて、教室全体が落ち着いた頃、夏休みの宿題の提出になります。

小学校ですから、先生が科目ごとに違う、ということはないので、一度にどっさり出します。

自由研究(当時は科学研究と言ってましたね)、算数の宿題、国語の宿題、理科と社会、そして家庭科の宿題……。

「はい、これで全部ですね。宿題忘れた人、いますか? はい、まだやっていない人、いますか?
 ダメですよ、夏休み中にしっかりやらないと。
 まだやってない宿題がある人は、来週の月曜日までに、しっかりやってきてね。
 約束ですよ。
 今日は始業式ですから、これで終わりです」

と、先生。

あれ、先生、もう一つ宿題の提出があるんじゃ……。

「先生、厳島神社のことについて調べる宿題は提出しなくていいんですか?」

僕は、一番力を入れた夏休みの宿題は提出しなくていいのか、質問しました。

厳島神社は、日本三景の一つ宮島(厳島)にある神社で(⇐皆さんご存知ですよね)、平清盛が隆盛にした神社で、平家ゆかりの神社です。

僕が生まれて育ったところには、厳島神社の外宮=地御前神社があり、厳島神社と誤嚥が深いところなのです。

先生は、夏休みに入る前に言いました。
「厳島神社のことを調べてきてくださいね。地御前ととてもご縁の深い神社です。厳島神社のことを調べると、地御前のこともいろいろわかります。面白いですよ。
 この宿題は、少しでもいいですから、必ずやってきてくださいね」

間違いなく、先生はこう言いました。
僕は、面白い宿題だと思い、結構一所懸命にやりました。地御前神社の宮司さんのところに取材したりして。

ところが、9月1日の2学期の初日、先生はこの宿題の提出を求めないのです。

「先生、この宿題面白いから絶対にやってこいって言ったじゃないですか?」

と僕が問うと

「え、そんな宿題、出してないですよ」

みんなも、

「そんな宿題出てないよ」「ええ、何いってんの、無いよの宿題」「そんな宿題知らないよ」「出てないって、そんなの」……。

誰に聞いても、そんな宿題出ていないのです。
先生も「全く記憶がない」って。

でも僕は確かに、夏休みに入る前に聞いたのです。だから一所懸命、やったのです。
何だったのでしょうか、あの宿題は。

「僕は、聞いたよ、先生があの宿題、出したよ」






2011年8月6日土曜日

広島、ロンドン。

【今日の一言】
おじいちゃんとロバートのことを思い出すと、なぜだか夏の空の香りがする。


9月になると「4月になれば彼女は」というサイモンとガーファンクルの歌を思い出す。
その歌詞の中に、「9月になると思い出す」、といった部分があって、英語だから正確には、内容を理解していないんだけど、きっと、センチメンタルな内容なんだろうな、とは思う。

なぜ今、「4月になれば彼女は」の話をしたかというと、僕のおじいちゃんのことを思い出したから。
僕もいい歳なので、おじいちゃんではなく、祖父と書くべきなんだろうけど、何歳になっても僕にとってはおじいちゃんなので、そう書かせてもらう。

サイモン&ガーファンクル¥ 2,248 (11% OFF)

僕は9月生まれだが、おじいしゃんも9月生まれだった。
おじいちゃん⇒9月生まれ⇒「4月になれば彼女は」という曲の歌詞に「9月になると思い出す」という歌詞があったな
という順番。

まあいいや、そんなことは。
今日は、不思議で、大好きだったおじいちゃんの話だ。

さっきも書いたけど、僕は9月に生まれた。おじいちゃんも9月生まれ。孫が同じ誕生月に産まれた、ということで、おじいちゃんはたいそう喜んでくれたそうだ。

僕のおじいちゃんは、特務機関員、つまり、諜報部員=スパイだった。
もちろんその事実は、あくまでも「なんとなくスパイっぽいぞ」という雰囲気が、おじいちゃんが死んでから家族の間で流れていただけで、おじいちゃんから、「わしはスパイじゃ」と告白された家族がいるわけではない。でも僕は間違いなく、おじいちゃんはスパイだったと思う。
第2次世界大戦の前後、スパイだったら、それが人にバレるということは、命を失うことにつながってしまう。そんなこと、どんなに親しい人にも漏らすはずがない。

いったいどこの国に属したスパイだったんだろう。日本か中国か連合国側か。おじいちゃんは、僕が中学に上がるころ、死んでしまったから、もはや誰にもわからない。藪の中だ。
しかし、おじいちゃんがスパイだったことを確実に裏付ける事実があった。


1945年8月6日の数日前の話だ。もちろん僕は生まれていない(僕は終戦の14年後にこの世に生を受けることになる)から、この話は母や関係者から聞いた話をもとにしている。

おじいちゃんや、おばあちゃん、うちの父母は、広島市の西の郊外に住んでいた。(今でも母はその家の近くに住んでいる)
「もう、日本は負けるで。特に広島は大変なことになる」
おじいちゃんは家族に伝えた。「とにかく広島から逃げるんじゃ」「これまでとは比べ物にならんほどの爆弾が、広島に落ちるんじゃ」とおじいちゃんは訴えた。。

しかし、他の家族は、日本が負けるなんて1%も思っていなかった。(すごい洗脳だよね)
だから、そんな大変な爆弾が落ちるなんて、誰も信じない。
「おじいちゃん、そんな変なこと言うのはやめんさい」と、むしろたしなめるのに必死だった。

それでもおじいちゃんは、家族に説得を試みた。必死に試みた。「とにかく逃げにゃあいけん。広島は危険じゃ」

しかし説得虚しく、結局誰も言うことを聞かなかった。
おじいちゃんは、一人で山陰方面に疎開した。
(これは家族を捨てたということではなかったと思う。仕事もあっただろうし、何とか自分だけも安全を確保し、8月6日以降、広島に舞い戻り家族を助けようと思っていたはずだ。
事実、おじいちゃんは、8月6日以降、すぐ広島に舞い戻り、家族と再会している。被曝に細心の注意を払って)

原 民喜¥ 460
井伏 鱒二¥ 620


8月6日に何があったかは、皆さんご存知のとおりだ。
世界ではじめて、核爆弾が広島に投下された。その惨状は筆舌に尽くせない。



幸いなことに、僕の家族は、ある程度爆心地から離れていたので事なきを得た。
家族の中では母が一番爆心地から近いところにいた。国鉄の横川駅で被爆している。ピカッと激しい閃光を感じてから、数分後、おびただしい景色を目の当たりにすることになるが、母や僕にとっては幸いなことに、その後もずっと健康で過ごしている。

第二次世界大戦や原爆投下のことについては、またいずれ書こうと思います。今日はおじいちゃんのことがテーマなので。


さて、おじいちゃんは、どうして原爆が落ちることを予測できたのか。

確かに、当時、広島への原爆投下を知ることができた人はいたらしい。海軍の通信兵は知っていたらしいし、当然軍部の幹部も政府の上層部も知っていただろう。
あれだけの惨劇が起こることが分かっていて、広島の人たちを避難させず、殺してしまったのだから、ひどいものだ。

おじいちゃんは、通信兵でなければ、軍の幹部でもない。では、どうして原爆投下を事前に知ることができたのか。それはスパイだったからだと思う。


僕が小学生の頃まで、おじいちゃんの知り合いだということで、イギリス人の青年が僕の家によく遊びに来ていた。25歳くらいの金髪で精悍な顔つきをした紳士だった。
彼はロバートと名乗っていた。まるで映画俳優のような、今で言えばイケメンだった。
イギリスに住んでいるが、仕事の関係で、日本によく来るということだった。

ロバートとおじいちゃんは、ビールを飲みながら、冗談を言い合っていたかと思うと、ヒソヒソ声で秘密の会話めいたことをすることもあった。

きっと、おじいちゃんの仕事と関係あったのだろう。二人は黒い金属の固まりをよく、僕の小さな家の縁側の上に拡げていた。
彼はそれを隠す様子も無く「無線機だよ」と流暢な日本語で僕に説明してくれた。そして僕とよく遊んでくれた。
僕は彼が大好きだった。無線機のこともいろいろ教えてくれた。「ほら、こうすると、イギリスの人とお話できるんだよ」

ロバートと、うちの地元の祭でけっこう全国的に有名な管絃祭に一緒に行ったときは、子供時代のとても楽しかった思い出だ。
竹西 寛子



今思えば、ロバートもどこかのスパイだったのだろう。当時、そんなことは想像もつかなかったけど。

気がつくと、いつの間にかロバートはうちに来ることはなくなっていた。仕事の関係で、もう日本に来る必要はなくなって、ロンドンに帰ったらしい。

僕が小学生だったということは、戦争が終わって既に20年は経過している。それを考えると、おじいちゃんは連合国側は中国側のスパイだったのかもしれないが、それは想像の域をでない。もしかしたらどこかの国に属するといった単純なスパイではなく、もっと複雑な関係の元に働いていたのかもしれない。


ある夏の終わりの頃。じいちゃんが、「イギリスへ行ってくる」と言って出ていった。それは自転車で海岸まで散歩してくる(その時の我が家から、海岸まで、歩いてでも2、3分だった)といった感じだった。
ロバートの結婚式に招待されたらしい。仕事を通じてなのか、それともそれぞれ人間としてだろうか、いずれにしても親子以上の年齢の差があった二人の間には、かたい友情が流れていたと思う。




おじいちゃんは、それから3ヶ月くらいしてから帰ってきた。
結婚式の様子やロンドンの風景などの写真を見せてくれた。
写真で見るロンドンの風景は、僕も思いっきり興奮させてくれたし、そんなところにひょいひょいっと出かけて帰ってくるおじいちゃんを、かっこいいなと思った。
家族全員に紅茶のお土産、父には高級なスコッチ、母と姉には素敵な洋服がお土産だった。僕には、顕微鏡を買ってきてくれた。今でも自慢の顕微鏡だ。


ロバートは、家に来ることはなくなったけれど、毎年、夏には暑中見舞いのようなカードを、冬にはクリスマスカードを、必ずロンドンから届けてくれた。
イギリスの素敵なおもちゃなども一緒に送られてきた。

我が家に電話が引かれたのは、僕が小学校2年の時だったと記憶する。カラーテレビを買った年に電話もついたように覚えている。

それからは、年に数回、ロバートからおじいちゃんに国際電話がかかってきた。

電話がかかってくると必ず僕と話したい、とロバートが言ってくれて、いろいろお互い近況報告をした。それはずっとずっと続いた。
僕はおじいちゃんが大好きだったように、ロバートのこともずっと好きだった。


時は流れて。

7年前のことだ。あれも夏の終わりだったと思う。ある化粧品会社のシャンプーのテレビCMの撮影で、ロンドンへ行った。
霧の街、ロンドン。しかし、天は見方してくれた。快晴が数日続き、美しい映像を撮影することが出来た。ロケの3日目、最後の撮影が終わり、15時くらいにホテルに戻ると、伝言があった。広島の母からだ。

ロバートが危篤だという。

具合がよくないロバートが、僕とどうしても話しがしたい、ということで、奥さんに頼んで広島の実家に国際電話をかけてきたそうだ。
残念ながら、僕は広島には不在。
しかし偶然か、必然か、僕はロンドンにいる。
母は慌てて、よくわからない国際電話で、僕が宿泊するロンドンのホテルに伝言を残したのだ。

僕は、一瞬のうちに35年の時間を逆さまにたどった。広島の我が家の縁側で、黒い通信機を出していろいろ教えてくれたロバートの姿が蘇った。

入院先は、ロンドンの郊外。近くはないが、遠くもない。ロンドンの夏の日は長い。21時くらいまで明るいから、何とかお見舞いが出来るはずだ。

撮影打ち上げのパーティー出席をキャンセルし、その病院までどう行けばいいのか、これから行って面会できるのかを確認し、列車とタクシーを乗り継いで、それでも18時前に病院に着いた。

「ロバート……」僕は声にならなかった。
ロバートが危篤である、という状況より、35年ぶりの再会を果たしたことの方が、僕を感傷的にさせた。

そりゃロバートにも、僕にも、同じように時は流れた。でも、二人共、すぐあの頃のような気持ちになった。
ロバートはまだ、意識はしっかりしていた。筆談が中心だったけど、少し会話をすることも出来た。彼が書く文字は、漢字を交えたきれいな文字の日本語だった。

彼は、僕を、あの頃と同じ目で見つめて、嬉しそうに、やさしく微笑んでくれた。僕も、気づいたら微笑んでいた。
それからのことは、よく憶えていない。でも、僕とロバートの間には、おじいちゃんを間において、間違いなく親友としての絆があった。僕は、おじいちゃんと一緒で、ロバートが大好きだ。


日本帰って、撮影したコマーシャルフィルムの初号試写を行った夜、ロバートが死んだというEメールが、彼の奥さんから届いた。
彼に最後に会えたのは、奇跡としか言い様が無い。

病院のホテルで、彼がほほ笑みながら、僕のために書いてくれた文章は、僕の大切なものをしまう引き出しの中に、しまってある。
どんなことが書いてあるかを、少しだけ紹介しよう。

「関五郎(おじいちゃんの名前)と、一郎(僕の名前)と、広島のことは、天国に行っても忘れない」と、まず書いてある。そして……

「きみのおじいちゃんは、結婚式に出席してくれた。君は、まあ、僕の葬式に出席してくれたようなもんだ。ありがとう。
結婚式と葬式か。
最後に、君に結婚式とお葬式に関わるアイルランドの諺を教えてやろう。『ガミガミ言われたいなら、結婚するべきだ。誉められたかったら、死ねばいい』 もうそろそろ、さよならだ」

今でも、このノートを見ると、涙が溢れてくる。

2011年7月3日日曜日

恒例:夏のミステリー 「宙をさまよう少年」

本日2011年7月22日 ガリガリ君梨味、最終生産日だそうです。
食べたい人は、お店に急げ!

暑い日が続きます。
今日は数年前に書いた怪談に手を加えて再掲載します。
いろんなバカのおかげで(そのバカには自分も含まれているのですが)今年は節電とか言われていますので、怪談で少しでも涼しくなりましょう。
これから、できるだけ多く怪談を書いていこうかな、暑さ対策のために、と思っています。
それでは、スタートです。


【今日の一言】
耳から離れない、あのリフレイン……(怖)


去年の夏だった。僕は、関越自動車道を東京方面に向かって車を飛ばしていた。イヤな雰囲気はあった。妙な噂も聞いていた。だから、草津にある妻の実家を夜中の24時近くに出るのは、いやだった。

噂の内容を話そう。
夜中の2時頃。昔でいえば草木も眠る丑三つ時だ。その時間に関越自動車道を走ると、出るらしい。嵐山(らんざん)から10キロメートルほど群馬寄りの、東京へ向かう上り車線だ。

少年が関越自動車道に突如現れて、時速100キロ以上で飛ばす車に負けるとも劣らないスピードで空を飛び、車を追いかけきて、恐ろしい歌を狂ったように歌い続けるというのだ。

いわゆる都市伝説のひとつか。

僕が子どもの頃、口割け女の話が噂され、ティーンエイジャーでさえ、夜中に一人でトイレに行くのは、相当怖かった。もちろん僕もその一人だった。

関越自動車道の「宙をさまよう少年」も、実態のないそのような都市伝説の一つに過ぎないと、思っていた。
なぜ、空飛ぶ少年が現れるのか、もっともらしいいくつかの説があったが、どれもあまり気分のいい説ではないので、ここでは書かない。

金曜日の会社を休み、土日とつなげて3連休にし、家族で、妻の実家の草津に行った。月曜日も有給を取っていて、4連休にするつもりが、会社の僕のチームが、月曜の朝、クライアントに呼ばれた、という連絡が入った。
いつも、こうだ。家族と楽しい時間を過ごそうとすると、仕事が入る。家族に申し訳ない、という思いで、日曜日は夜遅くまで草津で過ごした。それで出発時間が深夜になったのだ。
草津を12時に出るということは、嵐山通過は丁度2時くらいになるな、と「宙をさまよう少年」のことがチラリと頭に過ったが、バカバカしい話に行動を左右されるのは愉快ではないので、そのまま車を発信させた。

道は空いていた。前後を行く車も、すれ違う車もほとんどない。が、安全運転を心掛け、運転を続けた。日本ロマンティック街道を抜け、渋川伊香保インターから関越に入った。
さすがに深夜だ。関越に入ってもやはり車が少ない。宙をさまよう少年のことは考えずに、iPodに入っている夏にふさわしい曲を聞きながら、法定速度を守って、飛ばした。
しばらく走ると、道がほんの少し明るくなった。もうすぐ嵐山のパーキングエリアが近いのだ。時刻は丁度2時。出るとしたら、このあたりだが、特に何もなし。
嵐山を越えた。そこからの関越は、照明設備が整い、明るくなって運転がしやすくなる。
走っているのは、僕の車だけだが、実は、心の中で、ホッとした。出るわけないよな。

iPodの音楽が一回りしたので、ラジオに切り替えた。AMの深夜放送は一体どんなプログラムをやっているのだろうか。
その時である。
ラジオのチューニングが乱れ、風を切るような妙な音が聞こえてきた。
最初はラジオからと思ったが、車の左後方からも聞こえてきた。まるで何かが空を飛んでいる音にも聞こえる。確実に近づいてくる。追いついてくる。追いつかれてしまう。
ヤバい。狂ったような歌声もだんだん聞こえてきた。
車内は冷房が効いているのに、嫌な汗が出る。
アクセルを踏んだが思うほどスピードが伸びない。

来た。並んだ。僕の車の左側だ。
既に僕の心は、恐怖に支配されていた。宙をさまようだ。間違いない。左を見るな。前を見て走れ。
しかし、僕は恐怖にこらえ切れず、左を見てしまった。僕がそこで見たものは……

 ⇓
 ⇓
 ⇓
 ⇓
 ⇓
 ⇓
 ⇓
 ⇓
 ⇓
 ⇓
 ⇓
 ⇓
 ⇓
 ⇓
 ⇓
 ⇓
 ⇓
 ⇓
 ⇓
 ⇓
 ⇓
 ⇓
 ⇓
 ⇓

空飛ぶ「ガリガリくん」だった。(この写真、その時、撮影したものです)
この時間、赤木乳業のガリガリくんのトラックが、たくさんのガリガリくんを東京に運んでるんだよね。♪ガリガリ君、ガリガリ君、ガリガリ君……

2011年5月27日金曜日

緑の街に舞い降りて……6月の花嫁

【今日の一言】
B女史は、今も大活躍です。


【今日のもう一言】
掲載している動画の
「緑の街に舞い降りて」を聴きながら
読んでいただくと雰囲気があがりますよ。


風薫る五月もそろそろ終わり。
関東甲信越地方も梅雨入りをしました。

この季節になるとどうしても思い出す話があります。
以前、別のブログでアップしたお話ですが、もう一度アップします。

松任谷由実の「緑の街に舞い降りて」という曲が僕は好きなのですが、
その曲にまつわるおはなしです。

松任谷由実¥ 2,153 (14% OFF)



「6月の花嫁」

僕は30代の半ばまで、鎌倉に住んでいた。
その頃、よく通ったお店があった。
若宮大路の一の鳥居の側にあるバー。ほとんどの金曜日の22時を過ぎてからは、僕はそのカウンターで数時間を過ごした。
その夜は、友人B(女性!)と二人でお酒を飲んでいた。残念ながらガールフレンドではなく、本当の酒飲み友達だった。

そしてその夜は、当時僕が勤めていた会社のM氏も、23時を過ぎた頃、その席に加わった。
僕の左隣に座ったM氏は、複雑な名前のカクテルを飲みながら、独白を始めた。
「僕は、彼女と賭けをしたんだよ」
僕とB女史は、まずは適当なところで相づちを打つことからはじめた。

………

Mが、その女性に会ったのは、その時からさらに2年前のこと。
場所は、松任谷由実が「緑の街に舞い降りて」で、名前の響きがロシア語のようだった、と歌っている街だった。

Mは、テレビ番組を作る仕事で、その街の放送局を訪れた。
そして……その放送局の女性ディレクターと恋に落ちた、会って3秒後に恋に落ちたらしい。
彼女のことは、名前のイニシャルからYとしておこう。
Mの気持ちは、3秒後からYに釘付け。打ち合わせも上の空。
打ち合わせの後の、お決まりの会食とオフィシャルな2次会が終わったら、Mは猛烈にYを誘った。そこは押しの一手。自分が宿泊しているホテルのバーまで連れ出した。そのバーの営業終了は朝の5時。

何と、Mは、Yにプロポーズをした。
驚くことに、YもMに一目惚れをしたらしい。
(そりゃそうだ、いくらMの押しが強くても、一目惚れくらいしていないと、ホテルのバーで朝まで一緒に飲まないって)

そして彼女の答えは
「ありがとう。すごく嬉しい。今日はじめてあったのに、私もあなたが大好きになっちゃった」

あまりにも嬉しいその答えに、Mが彼女を抱きしめようとした瞬間、
どうしたことか、彼女は、突然泣き出した。

「どうして1週間早く来てくれなかったの」
彼女はちょうど1週間前に、会社の同僚と結婚する約束をしてしまったのだ。

その相手は同期の番組ディレクターで、数年間結婚してくれ、と迫られつづけていたそうだ。
彼に対して恋をしているわけではなかったが、家族から早く結婚しろ、と言われていたのと、26歳でもう行き遅れている(26歳で!? 20年前の話しだけど、その当時でも、26歳はまだまだ若い年齢だった。おそらく地方性の問題だろう)と思っていたことで、彼の長年のプロポーズに首を縦に振ってしまったのだ。
そして、わずか1週間後に、Mという運命の男性に会ってしまったのだ。

MとYは、会ったその日に、恋に落ちてしまった。激しく、深く。しかし彼女には、結婚を約束した相手がいた。

それからが大変だった。

彼は「そんな嘘の結婚は止めてしまえ」と言う。彼女は「そうしたい。そうする。でも、いい人なの、どうしよう」と悩む。結婚を約束したかれのお父さんは、その街の市長でいわゆるセレブ。そのことも彼女を悩ました。迷惑がかかる……。

しかし、恋はさらに深くなった。ロシア語みたいな名前の街には大きなスキー場があった。彼は、雪が降ったと聞くと、夜行寝台に飛び乗った。雪で滑る道を、体を寄せて歩いた。
上野発の夜行列車だ。

夏になったら、彼女がMを訪ねてきた。当時Mは、僕のアパートの近所に住んでいた。夏のビーチに、僕と僕のガールフレンドと、Mとその彼女の4人がデッキチェアーに並んで横になり、太陽と遊んだ。

夏が過ぎて、秋がきて、そして、その街は再びスキーシーズンを迎えた。
12月、雪がどっさりと降った日。その日は両家の結納の予定日だった。僕の友人は、ロシア語みたいな名前の街にホテルの部屋を取り、彼女を監禁した。彼女は「行きたくない、ここにいたい」といいながら、仕事に行くように、数時間で結納を済ませて、また部屋に帰ってきた。
いったい、女という生き物は、よくわからない。

春がきて、東京より一月遅い桜が咲いた。結婚式が、1ヶ月後に迫ってきたある日のことである。彼と彼女は、その街の近くで活躍した童話作家の作品の名前がついた喫茶店で、最後の話し合いをした。
「君はこのまま、結婚するつもりか」「したくない」「でも、このままじゃ、ずるずる結婚しちゃうぜ」「そんなことは無いと思うけど……」
そして最後に彼女は、彼に言った。
「あなたが結婚式場に、私を奪いに来て。ダスティン・ホフマンになって。私、あなたに賭ける。私を賭ける」
彼女の結婚式は、その街の山上のあるホテル。朝10:00。その街の山の上にあるホテルの式場。当日の朝、上野を早い新幹線で発ってもギリギリ間に合ったが、Mは安全策をとった。前の晩の上野発の夜行寝台に乗れば、朝の7時過ぎにその街に着く。
その夜行寝台は、冬に彼女に会いに行った時、何度も乗った列車だった。
朝の7時にその街に着いたら、そのためだけに予約したホテルでシャワーを浴びて、ダスティン・ホフマンになる準備をする。そして、タクシーで山の上のホテルに駆けつけて、彼女を奪いに行く。
Mの計画は完璧だった。

ただし彼女の結婚式が、スキーシーズンに行われたのであれば。

結婚式は6月。その夜行列車は、スキーの季節しか、ロシア語みたいな街を通らない。6月は、もう1本、海沿いの路線を走るのだ。


6月の花嫁は、幸せになるという。彼女は、今、幸せなのだろうか。

Mの話は、それで終わり。
彼は、それからしばらく、宮沢賢治の童話が読めなくなり、ダスティン・ホフマンの映画が見れなくなったということだ。

僕とB女史は、その話しで、その晩は随分盛り上がった。いつもは自分からは会話に割り込んでこないバーテンも、何回か絡んできた。
「早く忘れようぜ、落ち込んでも仕方ないんだから」と僕が言う。
「そうだそうだ、忘れろ忘れろ」とB女史があおる。
「そうだな、忘れることにするよ」
「忘れろ、忘れろ、かんぱーい」さらにB女史が続けた。
この話には別の後日譚がある。

Mに、その話は忘れろ、と強く主張したB女史。
数ヶ月後に彼女は、僕の友人の恋愛話を題材にして、小説を発表した。B女史が直木賞を受賞したのはその発表から、数ヶ月後のことだった。
Bが受賞した数日後、そのバーに3人で集まって、お祝いをした。もちろん宮沢賢治とダスティンホフマンの話は、禁句。

宮沢 賢治¥ 1,697