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2011年8月21日日曜日

えっ!? 小学校5年生が5次会までやって盛り上がった!?      全国少年少女くさサッカー大会外伝……その1

【今日の一言】
子どもは、みんな、かわいいんだな。(^^)v



全国少年少女草サッカー大会が、8月の12日から16日まで、足掛け5日間かけて開催されました。場所はサッカー王国の静岡。東は関東から西は関西まで、男子チームは256チーム、トップクラスから実力はまだまだついていないけど一所懸命練習しているチームまで集まって、サッカーに明け暮れました。

僕は、小学校6年生の息子が所属する小学校のクラブチームのコーチをやっていて帯同して行きました。

いやあ、サッカーはほんとうに面白い。少年サッカーのことでいろんな書きたいこともあるのですが、今日は、サッカーに関してではなく、宿舎での出来事をお話しします。


イナズマイレブンは、子どもたちのサッカー心に火をつけましたね。
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このサッカー大会は町おこしの狙いもあり、1チーム15人から20人程度の人数が、女子だけのチームも加えると300弱集まってきます。地元以外のチームの人たちは、全日から入るとして5泊するわけで、確かに町おこしとしても機能しているわけです。

僕たちの宿舎はJRの静岡駅から歩いて数分のビジネスホテル。普段は文字通りビジネスマンが出張などで使うのでしょうが、この週ばかりは小学生で一杯になりました。

15日の夕方のことです。僕たちのチームは5年生と6年生の混合チームなのですが、5年生たちが集まって何やら相談していました。
耳をそばだてて聞いてみると、どうやら今夜は最終日なので、5年生で打ち上げをする、というのです。
コーチの僕のところにも相談に来ました。

「コーチ、今晩打ち上げしてもいいですか?」
就寝時間は21時30分。
「9時半にみんなちゃんと寝れるのだったらいいよ。大騒ぎするのはダメだけど」

できるだけ子どもたちの気持ちや意思を尊重することを大切にしてきた僕は、5年生の打ち上げにオッケイを出しました。

晩ご飯は18時から。

その後、子どもたちは、夜の練習をしたい、と主張してきました。
明日は最後のゲーム、少しでもうまくなって良いゲームがしたいというのです。

ホテルの前は、公園になっていて、そこはキングカズこと三浦知良も練習したことがある公園なのだそうですが、
朝練はその期間中に何度かやりましたが、夜練ははじめてです。
しかも、ナイター設備はあるのですが、事前に申請しないと使用できず、それでも練習をしたい、というので、街あかりをたよりに夜練習をしました。
みんなサッカーが好きなんですね。上手な子も、そうでない子も、集中して、暗い中を練習していました。

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20時まで練習をして、ホテルに帰ります。

僕は5年生に尋ねました。

「もう打ち上げは無理だろう?」
すると
「いや、今からやりますよ。大丈夫です、9時半には寝ますから」

さて、コーチの僕は22時で一度、各部屋を見回らなくてはなりません。
マスターキーを持って、みんな寝ているかどうか確かめました。

するとみんな、僕が部屋に入ってきたのも全く気づくふうもなく、熟睡しています。
まあ、1日じゅうサッカーをやって疲れているのもありますし、小学校5,6年生ですから、それくらいの時間には寝るんですね。

「5年生の打ち上げ」はやらなかったのかな、っと思いました。

……

次の朝。

朝食は毎朝6時。最終日のゲームはスタート時間が早いので、子どもたちはすでに戦闘態勢でホテルの1階の食堂で朝食に臨みます。

僕は5年生に聞いてみました。

「夕べは打ち上げやったの?」

「はい、やりました。」「コーチ、5次会までやったんですよ?」

「5次会まで?8時過ぎからはじめて9時半までで5次会までやったの?」

「はい、やりました」

「1次会とか、2次会とか、どう違うの?」

「1次会は、みんなでお茶とかジュースとかもってきて飲みました。
 2次会は、面白い笑える話をみんなでしました。
 3次会は、怖い話、4次会は好きな女の子の話、
 5次会は、だらだらしてました」

よくわかんないけど、何だか、楽しそうでしょ。

2011年8月15日月曜日

さらば、夏。この時期、毎年感じるけど、夏って、どうしてこんなに短いんだろう。……「稲村ジェーン」に想いを込めて。

【今日の一言】
暑かったけどぉ、短かったよね……。夏……。


【今日のもう一言】
サッカーの話を書こうと思ったのですが、また近いうちに。


夏が大好きです。だからいつも、夏がくるのが待ち遠しい。
でも、夏って四季の中で一番短い気がします。

梅雨があけるのが7月の中下旬。
僕の印象だと、学校が夏休みに入る7月20日前後。それからが夏です。

そこからやっと入道雲が沸き立って、蝉が鳴いて
暑苦しい夏が始まります。
でも、お盆まですぐです。
そしてお盆明けると夏は終わり。と考えると4週間、つまり1ヶ月しかないのです。

その間は、確かに暑いけど、海で泳いだり、山に遊びに行ったりできるのは、ほんの数日。
あっという間にお盆になって、海にはカツオノエボシが出没して、
僕の大好きな夏はあっという間に終わるのです。

今年の夏は、サッカー三昧でした。と言っても僕がプレーするのでははなく、小6の息子やその友人たちのチームで練習したり、
静岡清水の全国からチームが集まってくる試合に参加したり(今がそうなのですが)しています。

そして、明日はお盆の送り火の日。

夏はあっという間に駆け抜けていくのです。

サッカーについては近日中に想いをアップします。

みなさんは、どんな夏を、過ごしていますか?

今日は、行く夏を惜しんで、映画「稲村ジェーン」のエンディングから。
メインテーマは「真夏の果実」。

サザンオールスターズ¥ 800

僕は桑田佳祐がメガホンを取ったこの映画、好きでした。当時鎌倉に住んでいて、本当に「稲村ジェーン」な感じでしたから。
主演は加勢大周と清水美砂。
映画の評価としては世間的にはイマイチだった記憶がありますが、僕は最高面白かったです。
今日の【今日の一言】は「稲村ジェーン」からいただいてます。

2011年8月8日月曜日

「ローマの休日」を観て、いろんなことを考えた

【今日のひところ】
オードリー・ヘップバーンのことを考えると、漫才グループのオードリーは、即刻名称を変えて欲しいと思う。

【今日のもう一言】
一応、ネタバレ有りです。

【今日の三言目】
関連記事です。ぜひこれも読んでくださいね
【遥かなるヴェネチア。カルチョの国で、見果てぬ夢を】



「ローマの休日」をDVDでみた。
6年生の息子が「名作映画が見たい」というので、TSUTAYAで借りてきた。

見終わった後
「いい映画だなあ」としきりに言っていたし、さらに話を聞くと、息子は息子ならではの感想を抱いていた。
「ローマの休日」は、これからの人生で何度も見るだろうから、その時にはその時の感想があるだろう。

いずれにせよ「ローマの休日」は素晴らしい映画であることは間違いない。

グレゴリー・ペック¥ 1,550
ローマの休日 (字幕版)
(アイチューンストアでもダウンロードできます)

アン王女がショートカットにしたサロンがあるという設定のトレビの泉、
アイスクリームを食べてポイっと捨てるスペイン広場、
そしてドッキリ的手法で撮影した真実の口……。
家族3人で旅したローマをオードリーとグレゴリー・ペックが生き生きと歩いている。

特に今回は、数年前に家族で行ったイタリア旅行を思い出しながらだったので、思うところがあったのではないでしょうかね。


ところで、僕はいつもこの映画を観て思うことがあります。

アン女王は、結局、国のために女王の地位を捨てずに公務に戻るわけです。
だからこそ、ラストシーンの切ない別れになるわけですが……。
(カメラマンとの友情も素晴らしい!!)

自分がジョー・ブラッドレーだったら、どうですか?
自分がアン王女だったら……。

僕がジョー・ブラッドレーだったら、あの別れ以来結婚できるかな……。あれ以降、大変だよ、どうしてもアン女王との休日を思い出してしまうでしょう。
だってあの気高く美しい、そして純粋な気持ちを持ったアン女王と、どうしても比べてしまうんじゃないかな。
いや、人生に無駄はないはずだから、次に出会う女性は、もっと自分にピッタリの、心から愛することができる女性のはずだ、それにしてもアン女王が結婚するとなると穏やかじゃないぞ……。とかいろんなことを考えてしまうのですよ。

まあ、考えてもしょうがないのですが……^^;

女性の方はどうですか? 自分がアン王女だったら……。
絶対、王女の地位は捨てないですよね。まあ、そうだよな。
男女を逆に入れ替えて考えてみても、まあ、面白いかな。

いずれにせよ、考えてもしょうがないのですが……^^;

この文章を書いていたら、また家族でイタリアに行きたくなりました。
前回は、ミラノ⇛ヴェネチア⇛フィレンツェ⇛ローマ とユーロスターで急ぎ旅だったので、
次はゆっくりと回りたいです。



ああ、思い出した。
当時息子は小学校の2年生で、
ミラノのドゥオーモの屋根上に登ったり、塔に登るのは楽しいし、美味しい物を食べるのは素敵な時間なんだけど
名画や彫刻などは、頑張って見ていたなあ。
ミラノの最後の晩餐から始まって、フィレンツェのウフィッツィ-ではたくさんの名画や彫刻などを見ました。
ヴェネツィアでは結構、舟で遊んだりしたのですが
ローマの初日ではヴァチカンに行き
名画や彫刻の類にはお腹いっぱい状態になっていました。
それまでも、まあ、退屈を感じることもあったのでしょうが、親二人が「世界の宝ものだから見ておかないと」と励ましながら一緒に見て回っていたのですが。
何しろ小学校2年生ですからね。

スッゲー、とか感じながらも、大人の僕でも、さすがに食傷気味でしたからね。

ローマの2泊目もヴァチカンへ行く予定でしたが、息子もさすがにぐずります。
「また絵を見に行くの?……何か他のことしない?」

そこへ、親二人でいつものセリフ。
「世界の宝物だから……」

息子は親の言葉を全部まで聞かず
「世界の宝物はもう結構!!」

いいコピーだなあ。


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2011年8月6日土曜日

広島、ロンドン。

【今日の一言】
おじいちゃんとロバートのことを思い出すと、なぜだか夏の空の香りがする。


9月になると「4月になれば彼女は」というサイモンとガーファンクルの歌を思い出す。
その歌詞の中に、「9月になると思い出す」、といった部分があって、英語だから正確には、内容を理解していないんだけど、きっと、センチメンタルな内容なんだろうな、とは思う。

なぜ今、「4月になれば彼女は」の話をしたかというと、僕のおじいちゃんのことを思い出したから。
僕もいい歳なので、おじいちゃんではなく、祖父と書くべきなんだろうけど、何歳になっても僕にとってはおじいちゃんなので、そう書かせてもらう。

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僕は9月生まれだが、おじいしゃんも9月生まれだった。
おじいちゃん⇒9月生まれ⇒「4月になれば彼女は」という曲の歌詞に「9月になると思い出す」という歌詞があったな
という順番。

まあいいや、そんなことは。
今日は、不思議で、大好きだったおじいちゃんの話だ。

さっきも書いたけど、僕は9月に生まれた。おじいちゃんも9月生まれ。孫が同じ誕生月に産まれた、ということで、おじいちゃんはたいそう喜んでくれたそうだ。

僕のおじいちゃんは、特務機関員、つまり、諜報部員=スパイだった。
もちろんその事実は、あくまでも「なんとなくスパイっぽいぞ」という雰囲気が、おじいちゃんが死んでから家族の間で流れていただけで、おじいちゃんから、「わしはスパイじゃ」と告白された家族がいるわけではない。でも僕は間違いなく、おじいちゃんはスパイだったと思う。
第2次世界大戦の前後、スパイだったら、それが人にバレるということは、命を失うことにつながってしまう。そんなこと、どんなに親しい人にも漏らすはずがない。

いったいどこの国に属したスパイだったんだろう。日本か中国か連合国側か。おじいちゃんは、僕が中学に上がるころ、死んでしまったから、もはや誰にもわからない。藪の中だ。
しかし、おじいちゃんがスパイだったことを確実に裏付ける事実があった。


1945年8月6日の数日前の話だ。もちろん僕は生まれていない(僕は終戦の14年後にこの世に生を受けることになる)から、この話は母や関係者から聞いた話をもとにしている。

おじいちゃんや、おばあちゃん、うちの父母は、広島市の西の郊外に住んでいた。(今でも母はその家の近くに住んでいる)
「もう、日本は負けるで。特に広島は大変なことになる」
おじいちゃんは家族に伝えた。「とにかく広島から逃げるんじゃ」「これまでとは比べ物にならんほどの爆弾が、広島に落ちるんじゃ」とおじいちゃんは訴えた。。

しかし、他の家族は、日本が負けるなんて1%も思っていなかった。(すごい洗脳だよね)
だから、そんな大変な爆弾が落ちるなんて、誰も信じない。
「おじいちゃん、そんな変なこと言うのはやめんさい」と、むしろたしなめるのに必死だった。

それでもおじいちゃんは、家族に説得を試みた。必死に試みた。「とにかく逃げにゃあいけん。広島は危険じゃ」

しかし説得虚しく、結局誰も言うことを聞かなかった。
おじいちゃんは、一人で山陰方面に疎開した。
(これは家族を捨てたということではなかったと思う。仕事もあっただろうし、何とか自分だけも安全を確保し、8月6日以降、広島に舞い戻り家族を助けようと思っていたはずだ。
事実、おじいちゃんは、8月6日以降、すぐ広島に舞い戻り、家族と再会している。被曝に細心の注意を払って)

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8月6日に何があったかは、皆さんご存知のとおりだ。
世界ではじめて、核爆弾が広島に投下された。その惨状は筆舌に尽くせない。



幸いなことに、僕の家族は、ある程度爆心地から離れていたので事なきを得た。
家族の中では母が一番爆心地から近いところにいた。国鉄の横川駅で被爆している。ピカッと激しい閃光を感じてから、数分後、おびただしい景色を目の当たりにすることになるが、母や僕にとっては幸いなことに、その後もずっと健康で過ごしている。

第二次世界大戦や原爆投下のことについては、またいずれ書こうと思います。今日はおじいちゃんのことがテーマなので。


さて、おじいちゃんは、どうして原爆が落ちることを予測できたのか。

確かに、当時、広島への原爆投下を知ることができた人はいたらしい。海軍の通信兵は知っていたらしいし、当然軍部の幹部も政府の上層部も知っていただろう。
あれだけの惨劇が起こることが分かっていて、広島の人たちを避難させず、殺してしまったのだから、ひどいものだ。

おじいちゃんは、通信兵でなければ、軍の幹部でもない。では、どうして原爆投下を事前に知ることができたのか。それはスパイだったからだと思う。


僕が小学生の頃まで、おじいちゃんの知り合いだということで、イギリス人の青年が僕の家によく遊びに来ていた。25歳くらいの金髪で精悍な顔つきをした紳士だった。
彼はロバートと名乗っていた。まるで映画俳優のような、今で言えばイケメンだった。
イギリスに住んでいるが、仕事の関係で、日本によく来るということだった。

ロバートとおじいちゃんは、ビールを飲みながら、冗談を言い合っていたかと思うと、ヒソヒソ声で秘密の会話めいたことをすることもあった。

きっと、おじいちゃんの仕事と関係あったのだろう。二人は黒い金属の固まりをよく、僕の小さな家の縁側の上に拡げていた。
彼はそれを隠す様子も無く「無線機だよ」と流暢な日本語で僕に説明してくれた。そして僕とよく遊んでくれた。
僕は彼が大好きだった。無線機のこともいろいろ教えてくれた。「ほら、こうすると、イギリスの人とお話できるんだよ」

ロバートと、うちの地元の祭でけっこう全国的に有名な管絃祭に一緒に行ったときは、子供時代のとても楽しかった思い出だ。
竹西 寛子



今思えば、ロバートもどこかのスパイだったのだろう。当時、そんなことは想像もつかなかったけど。

気がつくと、いつの間にかロバートはうちに来ることはなくなっていた。仕事の関係で、もう日本に来る必要はなくなって、ロンドンに帰ったらしい。

僕が小学生だったということは、戦争が終わって既に20年は経過している。それを考えると、おじいちゃんは連合国側は中国側のスパイだったのかもしれないが、それは想像の域をでない。もしかしたらどこかの国に属するといった単純なスパイではなく、もっと複雑な関係の元に働いていたのかもしれない。


ある夏の終わりの頃。じいちゃんが、「イギリスへ行ってくる」と言って出ていった。それは自転車で海岸まで散歩してくる(その時の我が家から、海岸まで、歩いてでも2、3分だった)といった感じだった。
ロバートの結婚式に招待されたらしい。仕事を通じてなのか、それともそれぞれ人間としてだろうか、いずれにしても親子以上の年齢の差があった二人の間には、かたい友情が流れていたと思う。




おじいちゃんは、それから3ヶ月くらいしてから帰ってきた。
結婚式の様子やロンドンの風景などの写真を見せてくれた。
写真で見るロンドンの風景は、僕も思いっきり興奮させてくれたし、そんなところにひょいひょいっと出かけて帰ってくるおじいちゃんを、かっこいいなと思った。
家族全員に紅茶のお土産、父には高級なスコッチ、母と姉には素敵な洋服がお土産だった。僕には、顕微鏡を買ってきてくれた。今でも自慢の顕微鏡だ。


ロバートは、家に来ることはなくなったけれど、毎年、夏には暑中見舞いのようなカードを、冬にはクリスマスカードを、必ずロンドンから届けてくれた。
イギリスの素敵なおもちゃなども一緒に送られてきた。

我が家に電話が引かれたのは、僕が小学校2年の時だったと記憶する。カラーテレビを買った年に電話もついたように覚えている。

それからは、年に数回、ロバートからおじいちゃんに国際電話がかかってきた。

電話がかかってくると必ず僕と話したい、とロバートが言ってくれて、いろいろお互い近況報告をした。それはずっとずっと続いた。
僕はおじいちゃんが大好きだったように、ロバートのこともずっと好きだった。


時は流れて。

7年前のことだ。あれも夏の終わりだったと思う。ある化粧品会社のシャンプーのテレビCMの撮影で、ロンドンへ行った。
霧の街、ロンドン。しかし、天は見方してくれた。快晴が数日続き、美しい映像を撮影することが出来た。ロケの3日目、最後の撮影が終わり、15時くらいにホテルに戻ると、伝言があった。広島の母からだ。

ロバートが危篤だという。

具合がよくないロバートが、僕とどうしても話しがしたい、ということで、奥さんに頼んで広島の実家に国際電話をかけてきたそうだ。
残念ながら、僕は広島には不在。
しかし偶然か、必然か、僕はロンドンにいる。
母は慌てて、よくわからない国際電話で、僕が宿泊するロンドンのホテルに伝言を残したのだ。

僕は、一瞬のうちに35年の時間を逆さまにたどった。広島の我が家の縁側で、黒い通信機を出していろいろ教えてくれたロバートの姿が蘇った。

入院先は、ロンドンの郊外。近くはないが、遠くもない。ロンドンの夏の日は長い。21時くらいまで明るいから、何とかお見舞いが出来るはずだ。

撮影打ち上げのパーティー出席をキャンセルし、その病院までどう行けばいいのか、これから行って面会できるのかを確認し、列車とタクシーを乗り継いで、それでも18時前に病院に着いた。

「ロバート……」僕は声にならなかった。
ロバートが危篤である、という状況より、35年ぶりの再会を果たしたことの方が、僕を感傷的にさせた。

そりゃロバートにも、僕にも、同じように時は流れた。でも、二人共、すぐあの頃のような気持ちになった。
ロバートはまだ、意識はしっかりしていた。筆談が中心だったけど、少し会話をすることも出来た。彼が書く文字は、漢字を交えたきれいな文字の日本語だった。

彼は、僕を、あの頃と同じ目で見つめて、嬉しそうに、やさしく微笑んでくれた。僕も、気づいたら微笑んでいた。
それからのことは、よく憶えていない。でも、僕とロバートの間には、おじいちゃんを間において、間違いなく親友としての絆があった。僕は、おじいちゃんと一緒で、ロバートが大好きだ。


日本帰って、撮影したコマーシャルフィルムの初号試写を行った夜、ロバートが死んだというEメールが、彼の奥さんから届いた。
彼に最後に会えたのは、奇跡としか言い様が無い。

病院のホテルで、彼がほほ笑みながら、僕のために書いてくれた文章は、僕の大切なものをしまう引き出しの中に、しまってある。
どんなことが書いてあるかを、少しだけ紹介しよう。

「関五郎(おじいちゃんの名前)と、一郎(僕の名前)と、広島のことは、天国に行っても忘れない」と、まず書いてある。そして……

「きみのおじいちゃんは、結婚式に出席してくれた。君は、まあ、僕の葬式に出席してくれたようなもんだ。ありがとう。
結婚式と葬式か。
最後に、君に結婚式とお葬式に関わるアイルランドの諺を教えてやろう。『ガミガミ言われたいなら、結婚するべきだ。誉められたかったら、死ねばいい』 もうそろそろ、さよならだ」

今でも、このノートを見ると、涙が溢れてくる。

2011年8月2日火曜日

なでしこジャパンの国民栄誉賞に関して……なんだか国民栄誉賞って、胡散臭い。

【今日の一言】
田村亮子と国民栄誉賞はよく似合う。但し受賞はしていない。

【今日のもう一言】
王貞治は、それが私の生きる道ですから、と国民栄誉賞を受けたような気がする。

【今日の三言目】
業界用語シリーズは、明日です m(_ _)m




なでしこジャパンに国民栄誉賞を与えることを、政府が決めたらしい。

澤穂希を中心にした、なでしこジャパンの活躍は、それはすごかったし、僕もリスペクトする。


でも、なでしこジャパンには国民栄誉賞は似合わないような気がするんですよ。


そもそも、国民栄誉賞って何だ?

ウィキペディアには
「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があった方に対して、その栄誉を讃えることを目的とする」として福田赳夫内閣時代の1977年(昭和52年)8月に創設された。
と書いてあります。

どうも気に入らないなあ。

イチローはかつて、
イチローに国民栄誉賞を、という声が上がり、それが現実になろうとする直前に
「僕は国民栄誉賞はいらないよ。まだ現役だし……」
みたいなことを言って事実上辞退した。しかも2回も。

あの時、やっぱイチローはかっこいいと心から思ったよ。

まあ、ビートルズだって、女王陛下から勲章をもらってるし。
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なでしこジャパンが国民栄誉賞に値しないなんて思っていない。
国民栄誉賞のような、胡散臭い賞よりはるかに価値のあることをやってくれたし、これからもやり続けてくれるだろうし、
とにかく、なでしこジャパンと国民栄誉賞は、似合わない。


ちなみに、国民栄誉賞を辞退した人はイチロー以外にもいて

盗塁王の福本豊さん。当時の盗塁の世界記録を樹立したときに、中曽根康弘主将から打診されたらしいけど、
「そんなんもろたら立ちションもでけへんようになる」(本人談)と固辞したそうです。カッコイー!!

それから古関裕而さん。お亡くなりになった後、受賞が内定していたそうですが、親族の方が固辞されたそうです。
古関裕而さんの音楽は大好きです。紺碧の空を何度歌ったことか。


【今日の四言目】
ビートたけしはは東京スポーツ紙上で没後受賞について「(死亡して)国民でなくなってから慌てて表彰するのはおかしい。だったら聖徳太子や徳川家康を表彰すれば?」「今のうちに森繁(久彌)さん(この発言時の1999年には健在だった)や中曽根(康弘)さんを表彰しないと手遅れになる」と茶化している。
(ウィキペディアから)

2011年8月1日月曜日

業界用語は恐ろしい……テレビCM制作の現場から  その1

【今日の一言】
続きはまた明日。



大学を卒業して、もう30年近く広告業界で働いてきました。最初の13年は半分広告業界ってかんじでしたが。

で、この業界で交わされる会話、というか業界用語が最初はどうも慣れなくて変な気分でした。
今日はそんな話を書いてみようかなと思います。

(夙川アトムはテレビの業界用語ですが)
夙川アトム¥ 2,940


ケツカッチン
今では業界用語としても死語かもしれませんが、僕が前の会社で働いていた頃は、結構周囲の人が使っていましたね。
「スタイリストがケツカッチンなので、最初に衣装の話からお願いしていいですか」とかプロデューサーが言うわけです。
意味は皆さんご存知の通り、この打ち合せの後に別権が入っているので、ということです。
しかし誰が言い始めたんでしょうね、ケツカッチンなんて。
今では、ケツがある、とか、少し上品に、おしりがある、とか言いますね。
普通に考えると、ケツがあるのは、人間として当たり前ですが……。

ケツの話から入ってしまって、ちょっと後悔しているのですが、書きなおすのが面倒なので、このまま行きますね。

僕が広告業界に入った頃、撮影したテレビCMは、ディレクター=演出家一人が、フィルム(35ミリのことが多かったです)をスプライサーで切ったり貼ったりしていましたが、ある時期から、フィルムのデータを電気化して、ビデオデータで編集するようになりました。
こうなると、ディレクターが中心になって編集をするのは変りないのですが、多くのスタッフも集室に入り、編集現場で意見が言える環境になり、その場で修正が可能になりました。
編集現場で僕が驚いたのが、
「ケツを切って頭にくっつけようか」
といった会話です。

ケツ切って頭にくっつけるんですよ
ブラックジャックかって。

手塚 治虫¥ 420

まあ、あるカットの最後の部分を切って、それより前に持ってくる、ってことですが。

撮影現場でも、業界用語が飛び交いました。

「笑う」は有名ですね。

はずすってことです。「その机笑おうか」というと、机をカメラの画面からはずすってことです。だからカメラマンがよく使った業界用語ですが、
最近は「笑う」を使うカメラマンも少なくなりました。
たまに「笑って」と指示を出すカメラマンがいても、マジに意味がわからないプロダクションマネージャーもいますねえ。

広告業界用語のはなし、今日はここまでにしておきます。

続きはまた明日。